【スポーツインフォメーション堺 Vol.6】
●特集…「車いすテニス・空手・ボブスレー」 ―身近にいる、女性トッププレーヤー3人に聞く!―
「何が私をスポーツに駆りたてるか」というテーマで今回3人のスポーツウーマンに登場していただきました。それぞれの分野で活躍している現役のトッププレーヤーのお話からこれからのスポーツに取り組もうとしている人やスポーツにさまざまな形でかかわっている人たちにとってヒントとなる話が聞ければという思いでこの特集を組んでみました。さてどんな話が飛び出すか。本誌編集スタッフがインタビューしました。

―まず大前さんからお伺いします。車いすテニスをなさっているということですが。いつ頃から。またどうして車いすテニスなんですか。
大前 13年前になります。結婚以前はアーチェリーをしていたんですが、結婚して子どもができて、しばらく遠ざかっていたんです。で、下の子が3歳ぐらいのときに知り合いの人から車椅子テニスをしないかと誘われて。
―え、ずっと車いすテニスではないんですか。前のアーチェリーはどうでしたか?
大前 パラリンピック(1980年オランダアーヘン大会)で金メダルを取りました。
―金メダルですか。そこまでやっててテニスにかわったんですか、またどうして。
大前 初めは車いすテニスって、どうするのか想像もつかなくて見に行ったんです。仙北のクラブだったんですけど、そこで車いすとラケットを借りて。もちろん、ボールにも当たらなかったし、車椅子もうまく操作できなかったんですがつきに1回程度するうちにだんだんおもしろくなってきて、子育て中心の生活の気分転換にもなりました。それとテニスの場合、人と一緒にできるし、屋外で健常者の人とも一緒にできるじゃないですか。それとウェアがきれいでしたから。
―本格的に車いすテニス(プレイヤーの障害者としての規定があるほか、競技ルールとしては2バウンド以内で返球することがOK。それ以外は通常の硬式テニスと同じ。)に取り組むようになったのは、何かきっかけがあったんですか?
大前 車椅子テニスを始めて6年目にジャパンオープンで優勝して、その年のオーストラリアで開催されたワールドチームカップ※に日本代表で出てそれからですね。初めて海外 へ遠征してとっても緊張したけど大いに刺激になりましたね。
※ITFの公式車椅子テニス団体戦(男女別)。年1回開催され開催国は毎回異なる。
―それからずっと続けられているわけですが、シングルですかダブルスですか?
大前 両方です。海外ではミックスダブルスもあるんですが、日本ではその大会がないですから。
―今年に入ってからも海外に行ってらっしゃるんですよね。現在のランキングは何位ですか?
大前 1月にオーストラリアのクィーンズランドオープンで準優勝してシドニーオープンでベスト4、オーストラリアオープンでベスト16でした。現在の世界ランキングは12位です。
―それはすごい。ところであのテニス用の車椅子は特注なんでしょ。
大前 ええ、腰まわりがフィットしないとだめですし、人それぞれ障害が違いますから。
―海外遠征なんか費用の補助があるんですか。
大前 ワールドチームカップとU・Sオープンは、協会から出ますけど、あとは全部自費です。優勝すれば賞金がある程度でますが、微々たるものです。
―かなりの費用が掛かりますね。そういえば伊藤さんの競技も費用が掛かりますよね。
伊藤 ええ、ボブスレーは、乗り物が高いですからね。300万ぐらいですね。
―高いですね。また、何でそんなお金の掛かるボブスレーをしようと思ったんですか?
伊藤 長野オリンピックは1998年の2月にあったんですが、その年の9月に女子ボブスレーをやってみたい人募集とボブスレー紹介記事が載っていて、ちょっと興味を持って…。もちろん素人ですから、そんな高いものと思わなかったし。元々、高校時代まで陸上の短距離をやってたんです。で、その記事の中でボブスレーはスプリント力が大事って書いてあって、それまで全然ボブスレーて知らなかったんですけど、次のオリンピック『アメリカ・ソルトレイク』では、女子ボブスレーが正式種目になるということで、これはちょっとやってみようかなって思ったんです。
―ガンバレば、オリンピックに出れるぞって…。その説明会には何人ぐらい来てたんですか?
伊藤 約20名くらいですね。その後コントロールテストといって体力測定みたいなテストがあるんです。それでその人の基本的な能力値を確認するんです。
―「ボブスレー」って2人ですね。パートナーは?
伊藤 男子は4人もあるんですが女子は2人乗りだけです。今年から始めた広島の人で、『明瀬直子さん』と組んでます。彼女は7種競技でインターハイとインカレで優勝した人です。
―インターハイ陸上チームですね。ところでついこの間帰国したところと聞いていますが。
伊藤 今年初めて日本代表として、ドイツのウィンターべルグとオーストリアのインスブルックに行って2試合に参加してきました。日本代表としては2チーム参加して私のチームは両方とも16位でした。
―伊藤さんは前と後どっちをやっているんですか。
伊藤 私は前です。パイロットといってソリを操って操縦する役です。スタートしてから先に乗る方。後は、ブレーカーといって、スタートしてから長くボブスレーを押すので、 より脚力がある人がいいですね。それとパイロットはやはり経験が必要ですから。
―日本では馴染みが少ないので、もう少しボブスレー競技についてお伺いします。あのコースというのは、それぞれ地方によって地形にあわせて設営されますよね。その中で何か決まりはあるのですか。
伊藤 コーナーの数が14~15。距離が1200mから1700mでまちまちですね。ただソリに対しては規程があって、選手とソリを合わせて390kg以内に決められています。それ以内だったら重りを積んでもいいんです。
―どれくらいスピードが出るものですか?
伊藤 だいたい平均90km/h~120km/h、最高時速としては140km/h位です。時間にして約60秒前後の勝負です。
―100分の1秒を競うすごいスピードですね。すぐ目の前が氷のコースだからF1なみの感覚じゃないですか…。恐怖心は?
伊藤 今回初めてこけたんです。それまであまり恐くなかったんですが、それからちょっと…。でもすごくいい経験でした。こけて初めて限界がわかることもありますし。コーナーでのタイミングとかバランスとか。
―初めての海外遠征で現在のパートナーと組んでいい経験をたくさんしたということですね。
―おまたせしました。門石さんは糸東流という空手の流派の「形」のチャンピオンということですが、なぜ空手を始められたんですか?
門石 小学校3年の時、踊るバレーをやりたくて地元の会館に行ったんですが、当時は年齢が低すぎて、入れなかったんです。同じ場所で従兄弟が空手をしていて、それで始めたのがきっかけですね。高校ぐらいまでは、組手と形をしていたんですが、今は「形」だけです。
―ほとんど偶然で始めて、今、世界のトップクラスですか。で空手の「形」ってどういう競技なんですか?
門石 8m×8mのコート内で空手の『受け』とか『攻撃』の形を組み合わせて演武して、「正確」「気魄」「緩急」なんかを複数の審判員が判定して得点を競うんです。指定形と自由系があって、その大会によって事前に決められているんです。また個人と団体戦があります。
―団体戦ってどういうものですか?
門石 3人で同じ演武をして、そのそろいぐあいなどを競うんです。
―床のシンクロナイズドスイミングみたいなものですね。門石さんは、今も団体戦だけですか?
門石 1996年から国体の奈良代表で個人「形」でも出場しています。あと1998年に糸東流のアジア・オセアニア大会がオーストラリアであったんですけど、個人の部では日本代表になれなかったので、姉とともに自費で参加したんですが、正規の日本代表をおさえて個人戦では私が優勝、姉が2位、団体戦でも姉と後輩と組んで優勝することができました。
―正規の日本代表を負かして来たんですね。
門石 あの時は、代表になれなくてかなり悔しくて、その分『燃えて』いましたネ。
―しかし、姉妹でワン・ツーというのもすごいですね。また、そういうお姉さんがいたから逆にはげみになったんでしょうね。
門石 そうですね、小さい時から負けたら悔しくて、それでガンバってきましたね。特にすぐそばに姉がいましたから、いつも姉妹で競っていましたね。普段は仲がいいんですが、たまにケンカもしたりして。
―迫力ある姉妹ゲンカ!
門石 いえいえ平手ですよ。お互いケガしますからね、そのへんは加減して。

大切なのは仲間?ライバル?指導者?そしてもっと…!
―門石さんの場合は、ほんとにすぐ側にライバル兼指導者がいて、すごくある意味ではラッキーだと思うんです。遠征費も連盟から出る場合が多いし。でも、それはそれでいろいろな困難なシーンがあったと思うんです。そんな困難をどう克服してきたかをそれぞれお聞かせ願えたらと思います。
大前 まず初めの頃は練習する場もなかったです。泉ヶ丘と芦屋のテニスクラブのオーナーがすごく好意的で、月2回程度グラウンドを貸してくれたのが有難かったです。今でこそ、車椅子テニスに対してオープンですが、当時は理解してもらえずコートが痛むとかで、よくケンカして来ました。あとトイレとかシャワーの設備ですね。最近は設備的に整備されてきましたけど。またコーチというかレッスンをつけてくれる人があまりいなかったですネ。今は、日本車いすテニス協会派遣のコーチが、和歌山にいるので週に1回レッスンを受けに行っています。
伊藤 私の場合はマイボブ(自分のボブスレー)が欲しいですね。この前は、日本代表で行ったんですけど、レンタルでしたから。
―クールランニング※の世界ですね。日本代表やのにマイボブもない。
※ジャマイカから初めてオリンピックにボブスレーで参加するチームを題材にした映画。自分たちのボブスレーがなくて苦労した。
伊藤 レースでは特にランナー(ソリの刃の部分)が大切なんです。氷の質や気温によってランナーを替えるんです。強いチームだったら5セットぐらい持って来ていますね。1セット100万円ぐらいするんで揃えるのは大変ですけど。でもランナーで2秒ぐらいタイムが変わるんです。
―でもソルトレイクで優勝してもらうには、みんなでカンパでもして、まずマイボブを買ってもらわないといけませんネ。
伊藤 やはりボブによってかなり違いますから、ぜひ何とかしようと思っています。せめてボディーだけでも自分のものを持ちたいですね。それと試合や練習の時ボブスレーを移動させるのが大変なんです。
―ボブスレーを移動するスタッフとかいないんですか。あれって200kg以上あるんでしょう。
伊藤 そういう専門のスタッフはいません。ボブを移動する時にケガをする選手もいるぐらいですから。でも試合の時は女子の場合、他国の選手が手伝ってくれたりして、なかなかいい感じですよ。男性のチームメイトが手伝ってくれたりもしますネ。
門石 私の場合、確かに環境は良かったですね。道着は軽いし、道具にはあまりお金も掛からないし。ただスポーツをしていれば誰にもあることですが、何回か行き詰まった事があります。もうやめようとか。
―そんな時どうしましたか。
門石 周りに姉とかがいましたから相談したりして。でも最後は、やっぱり負けたまま終わるのって、悔しいじゃないですか。それで自分でガンバルしかないなということで、今になっていますね。また最近は子供たちを週3回教えているんで自分の練習時間が少ないのがつらいですね。それと仕事が忙しい時に大会があったりして、同僚に迷惑をかけているのが…。
―アマチュアの場合、仕事との両立がきついときがありますよね。でも、職場の仲間が応援してくれているからという、張り合いもあるのでは。
門石 そうですね。みんな応援してくれてますし、家族や先生も支えてくれていて。感謝しています。(伊藤 大前 それはみんなそうね。)
―子供たちの指導をしているということですが、指導においてのポイントは。
門石 そうですね。指導における『緩急』というか『楽しさと厳しさ』をうまく取り入れることですね。それと個々の個性をつかむこと。すぐうまくなる子と時間の掛かる子とか、いろいろですから。やる気のない子がまたうまく乗ってきたり、楽しいですね。
―常にモチベーションを高めて行くというのが一番難しいですからネ。
―先程、大前さんのほうから指導者がいなかったということがでてきましたが、伊藤さんの場合、女子ボブスレーは歴史が浅いしどうしているのですか?
伊藤 初めは男子選手の後でブレーカーをして教えてもらったり、男子チームのコーチに指導してもらったりして。今でもいろいろ教わることは多いです。3シーズン目になってやっとボブスレーの難しさが実感してきましたね。奥が深いというか。
―ウィンタースポーツということで、普段の季節は自主トレでしょ。また、相手方は広島在住だし、試合にのぞむまでが大変ですね。
伊藤 夏合宿は長野にプッシュボブスレーというのがあって、スタート練習用のトレーニングを積んでいました。普段は、自分で鍛えるしかないんで、そういう意味で自己管理が大変です。
―やはりみなさんそれぞれの立場で努力しておられる。では、今年の目標をお聞かせください。大前さんの場合シドニーパラリンピックの日本代表に決まっていますが、今年の目標は。
大前 もちろんパラリンピックも大切ですが、そのときのランキングによるシード権が大きいんです。特にヨーロッパやアメリカの選手に比べて、グレードの高い試合が国内で少ないので、海外大会も含め一つずつの試合を確実にものにして、ランキングを上げて行きたいです。また、昨年U・S・オープンで日本人としてはじめてダブルスで準優勝したので、次は優勝を。最終的には世界最高の大会NECマスターズ※に招待されるよう頑張りたいです。
※車いすテニスマスターズはシーズン終盤を飾るイベントで、トーナメントは男女の世界トップランカー8名が招待される。
―伊藤さんはどうです。
伊藤 さきほど言いましたように、なんとしてもマイボブを持つこと。それと次のソルトレイクオリンピック代表選手になることですね。同時に着実に世界のレベルに追いつくことだと思っています。
―それには、やはりマイボブがネ。
―門石さんはどうです。
門石 全日本空手道選手権大会に出場してがんばりたいです。もちろん国体に出場して個人の部で上位をねらいたいですね。それと4月から昨年国体で優勝した人が入社してくるので、空手クラブをつくりたいです。あと、自分のことではないんですが、今、教えている子供たちが将来全国大会などで活躍できたらいいなと思っています。

トッププレーヤーとして後輩に一言!
―最後に、スポーツのトッププレーヤーとして、後輩にアドバイスを何か。
大前 自分のことも含めてですが、年齢とともに体力も気力も若いときに比べて劣っていくので、勝負に対する執着心というか、集中力を出る試合ごとにしっかりと持つこと。それと、イメージトレーニングをいつもする事。私の場合は、スタジアムの観客、コートの背景、審判員など細部にわたってイメージし試合のシュミレーションをよくします。
門石 私もイメージトレーニングはよくします。大前さんほど、緻密じゃないけど。大切なことだと思います。
―トップの選手は常に考えているのですネ。さて、それぞれのお話がおもしろいのでもっといろいろ聞きたいことがあるのですが、紙面の都合上、今日はとりあえず第一ラウンドということで、次に機会があればそれぞれの続きをお伺いしたいと思います。本日は長時間にわたりありがとうございました。

<編集後記>
肩ヒジはらず自然体。これがトップの人かと思うほど、3人とも物腰柔らかな素敵な女性たちだった。でも自分に対する責任感と厳しさは、その言葉の端々から感じられた。彼女たちのように最も努力した人たちだけが『自分をほめてあげたい』といえるのだろうと、あらためて考えさせられた。彼女たちそれぞれの今後の活躍を心より応援したい。

門石 圭代(かどいしたまよ)
・堺市職員
1976年生まれ
小学校3年時、糸東流入門、現在3段
主な戦歴:
‘94年糸東流空手道アジア選手権大会 団体形 優勝
‘96年財団法人全日本空手道連盟ナショナルチーム入り
同イタリア国際親善大会 団体形 2位
同糸東流世界選手権大会 団体形 優勝
‘98年糸東流空手道アジア・オセアニア選手権大会
個人形・団体形 優勝
‘99年糸東流全国選手権大会 個人形 優勝

空手をしていて楽しかったこと
1.外国選手・地元の人たちとの交流。
2.日本選手同士の交流や団結。
3.子供たちの成長

大前 千代子(おおまえちよこ)
・堺市浜寺石津町「山口加工所」勤務
堺テニスクラブ「ツッチーズ」所属
1956年生まれ
障害名・ポリオ、生後1歳半の時罹患
車いすテニス暦13年
‘00年2月末現在の国際ランキング・シングルス13位、ダブルス12位
主な戦績:
‘93ジャパンオープン優勝、‘93年より日本代表チーム入り
‘96年パラリンピックアトランタ出場
‘98年NECマスターズオランダ、日本人で初招待
‘99年USオープン・シングルス ベスト16
その他優勝多数

テニスをして良かったこと
1.いつの間にか家族でテニスをするようになり、季節を問わず皆で楽しめ共通の話題で盛り上がる。
2.常に次の試合のために動いているので生活に張り合いがもてる。
3.色々な国に行くことが出来、様々な人達と知り合えること。障害者に対する意識の違いや、文化の違いを体験し、外から日本人の良い点、悪い点が見えること。

伊藤 奈美(いとうなみ)
・当事業団職員、初芝体育館勤務
1978年生まれ
高校生時代4×100mリレーでインターハイ出場。
主な戦歴:
JBOB Cup98で4位(国内1位)
‘99年‘00年ボブスレー全日本選手権大会2man女子各1位
‘00年世界選手権大会とW杯第5戦で2man女子各16位

ボブスレーをしていて楽しいとおもうこと
1.いろんな人と知り合えること。
2.やっぱり勝つことが楽しい。