【スポーツインフォメーション堺 Vol.7】
●Spotlight
スポーツウーマン発掘
大浜バドミントンクラブ(OBC)所属
喜多京子さん
・堺市在住 1930年生まれ

『気楽50の集い』。「今わたしが一番一生懸命しているのが、これなんです。」1枚のチラシを前にして声をはずませて語るのは喜多京子さん。「50歳以上のバドミントン好きを集めて年に2回、体育館を借りて大会をしてるんです。もうクラブの運営は若い人に任 せて、これからはこれで自分は楽しんでいきます。」
彼女が初めてバドミントンと出会ったのは、今から28年前、大浜体育館の週2回の「体力づくり」教室だった。そこで、バドミントンと出会い、「バドミントン教室」にも通うようになり、以来いろんな形でバドミントンと関わり合うようになった。特に、彼女のバドミントン歴のユニークなところは、様々なバドミントンクラブ(愛好会)を作ってきたことだろう。
彼女のクラブ歴は、前述の大浜体育館でOBC(大浜バドミントンクラブ)に入ったことから始まる。当時OBCは、バドミントンキャリアのある人が多く、かなりレベル的に高かった。しかし、新人に対する特別な指導体制もなく、一番素人だった彼女は、クラブの練習でともすれば浮きがちになる。そこで、彼女は「バドミントン教室」の友人を次々とOBCへ誘い、OBCでの活動をより楽しいものにしていった。このときの、クラブで浮きがちになるという経験が、それからの彼女のクラブ作りに大きな影響を与えることとなった。
昭和61年に初芝体育館ができ、地元ということで、彼女は初芝体育館のバドミントン教室にも通うことになる。ここで、彼女は「しらさぎクラブ」(現「サタデーしらさぎ」)を立ち上げている。これは、彼女が初めて主体的に手がけた、最も彼女自身の思いがこめられたクラブだった。というのも、立ち上げの時のメンバーにバドミントン教室の体育実技指導員を巻き込み(指導員といっても普段は教えるほうが中心で、自分の練習の場があまりない。)、そんな人たちの練習の場として活用してもらいながら、1時間程度クラブ会員に対し指導してもらう、体制の整ったクラブだったからである。バドミントンを初めてする人も、ここにくれば教えてもらえ、仲間になれる。そんな彼女の思いが初めて具現化したクラブで、夜のバドミントン教室の人や他のクラブで活動している人まで人づてに集まってくるようなクラブとして成長していった。
「羽を入れたカゴを持ってコートに入っていくと、周りからぞろぞろ集まってくるんです。花に引き寄せられる蜜蜂みたいにカゴに引き寄せられてあちこちから自然と集まってくるんです。何か練習がはじまるぞってね。」当時の情景を思い浮かべながら、笑顔で喜多さんは語る。
また、全くの裏方として、朝のバドミントン教室のメンバーが中心の「しらさぎクラブ」の立ち上げにも関わっている。ここでも彼女のコ-ディネーターとしての力量はいかんなく発揮され、現在も自主的に活発に活動を続けているクラブである。
このようにして、いろいろなクラブの立ち上げや運営に関わりながら、実は20年前から彼女は、東百舌中学校の学校解放の管理指導員として毎週月・木にバドミントンに参加している。まさにバドミントン三昧の人生である。ところが、こんな喜多さんでも順風満歩のクラブライフを過ごしてきたわけではない。OBCの時は、一人欠け、二人欠け、ついには、常時活動する人が四人にまで減ったことがあった。でもそんな時こそ彼女の本領発揮である。「一緒にやろう。」「またおいで。」と地道に声をかけ続け、また、気心の知れた仲間とは、バドミントンが終わってから自宅の仕事場(喫茶店経営)でワイワイガヤガヤパーティーを催し、バドミントンだけでなく友人としてのつながりを深めていった。このころのメンバーが現在のOBCの中心的メンバーに育っている。
今一番彼女にとって気がかりな事が一つだけある。それは、どのクラブも、「メンバーが上手になると指導しなくなるのですよ。やっぱり指導するより、せっかくのクラブの時間だから、メンバー自身がゲームなどして楽しみたいんですね。」「でも自分も含めて、始めは誰かに教えてもらってきたわけやし、次はちゃんと恩返しで、新しい人たちを受け入れていかんとあかんと思う。今、そんな体制になっていないから、本当の新人さんには、体育館のバドミントン教室を紹介しているんです。へたに受け入れて、浮いてしまってもいややからね。」とちょっぴり寂しそうに話す喜多さん。「でもそれは、今やっている人たちが自分達で考えることやからね。」
彼女自身は、いつも前向きに『気楽』にいつまでもプレイできることを『喜び楽しむ』冒頭の『喜楽50』に今は夢中である。でも、「気配りの名人」「クラブライフの達人」が、次にどんな事をするか、わたしたちはひそかに期待しよう。