【スポーツインフォメーション堺 Vol.8】
●特集…シドニーオリンピック競技大会
小学生のころから夢見ていた…シドニーオリンピックに参加して
体操日本代表 藤田健一

ウォーという押し寄せるような大歓声、大観衆。そして、大勢の報道陣と無数のテレビカメラ。すべてが、今までに経験のない圧倒される雰囲気でした。でも、高まる緊張の中で、いい意味でファイトとやる気がわいていて、試合においては、とても集中することができました。
団体戦予選初日、1種目目「跳馬」
自分としては、一番得意とする種目です。何としても種目別の決勝に残りたいという思いがあったので、全力を注ぎました。
今まで味わったことのない緊張感。
『ローチェ(前転跳び前方2回宙返り)』
世界のみんなが跳んでくる技だけにちょっとしたミスも許されない。今までやってきた練習を思い出し、自分自身に問いかけて気持ちを落ち着かせました。
  …
一瞬の着地ミス。くやしかった。(わずか0.038の差で決勝に進めませんでした。)
結果を出せなかったのがくやしかった。
自信があっただけにくやしかった。
でも、世界の連中(選手)には負けていない。自分の力が劣っていないのがわかったから、その後の励みになりました。
「あん馬」は、普段の練習でも特に緊張する種目です。出だしがカギ。前半を意識してていねいに、そして、美しく。
演技の前半が流れに乗ってスムーズにいった。
いつも失敗していたので、開き直ってやったのがよかったのか…。そして、何よりも後の人がやってくれるという安心感が気持ちを楽にしていった。
団体予選でうまくいったので、団体決勝、個人総合と自信を持って演技できた。オリンピックでは、3日間ともイメージ通りうまくいって、自分でも「あれ!?」っていう感じだった。

体操というのは、ご存知の通り、基本的には個人競技なので、演技中は、自分のことに精一杯集中していました。試合中にチームメイトとの細かい会話などは、あまり覚えていないのですが、チームの雰囲気としては、仲間をみんなで応援して明るい感じでした。選手たちの緊張度もいい感じで試合に臨めた気がします。
団体戦として大切なことは、いかに自分がミスを出さずに次の人にバトンを渡すか、その積み重ねだと思います。チーム戦の特徴は、後半の演技になるにつれて点数が上がるので、いかにいい状態で次にバトンを渡せるかで得点が変わっていく。だから、選手は失敗が出た時も、お互いカバーしあいながら各種目を消化していきます。特に今回のオリンピックでは、久しく日本チームは、メダルから遠ざかっていたので、一人ひとりが全力を尽くして次につないでいけばメダルに届くと信じて、みんなががんばっていたと思います。
予選の試合が終わった後は、さすがにみんなでテレビを囲んで、見入っていました。決勝に出場できることを信じて…。
団体戦決勝に臨む時は、みんなで「予選みたいなミスはもう出ない」と頭に言い聞かせていました。予選の失敗で、逆にみんなの気持ちはまとまっていました。
選手村では、チームメイトとみんなで一緒に食事にいったり、体操とは関係のないたわいもない話をして、明るくリラックスして過ごしていました。

振り返れば、隣に住んでいたお兄ちゃんが体操をしていて、たまたま体操教室に遊びに行ってトランポリンをしたことが、体操との出会いでした。(お兄ちゃんとは、荒牧大介選手。)
小学校から中学校までは、マック体操クラブに通っていました。ここでは、常に基礎練習の繰り返し。基礎ができていないのに難しい技はできないというのが指導方針でしたから、徹底的に基礎をたたきこまれました。からだで覚えるという感覚です。
清風高校に入ってからも基本練習が中心でしたが、ある程度の技術練習も取り入れていきました。
大学に入ってからは、上を目指すための実践的な練習になっていきました。ここでは特に、色々な技術論のほかに精神論を教えてもらったのが大きな転機だったと思います。4年生ぐらいになると、自分でいろいろと試行錯誤しながら、自分の体操感というものを煮詰めていきました。
今、常に心がけていることは、「身体の極限の動きをいかに美しく、しかも平然と魅せることができるか」つまり、『美しい体操』です。そのことが、人に感動を与えるのだと思います。今回オリンピックに出場して、自分の体操が間違ってなかったことに自信を持つことができました。
小さいころは、友達と遊びたいけど、練習が毎日あるのでなかなか遊べませんでした。怪我をしてなかなか思うように回復しなかった時も、ルールになかなか対応できなかった時にもつらい思いをしました。しかし、難しい技ができた時の達成感や試合で結果を残したときの爽快感は、そんなつらいことを一掃してくれました。
代表選手に選ばれ、実際オリンピックの場を経験できたことで、小学校からの夢も叶い、すべて報われラッキーだったと思います。それもこれもいつも両親が温かく見守ってくれていたからだと思います。「怪我だけは気をつけて思い切りやりなさい。」それが、両親の口ぐせでした。この言葉が、どんな試合でも私にやる気と勇気を与えてくれました。オリンピック出場が決まった時は、「おめでとう」と本当に喜んでくれました。
私自身、今回初めてオリンピックに参加して、まず自分の体操が一回り大きくなった気がします。あの大舞台で演技することができ、そして、最後まで戦い抜いたことは、自分に自身が持て、これからの大会にとてもプラスになると思います。これから先の人生経験としても、体操を通じていろいろな人と出会うことができました。体操に限らず、スポーツを通じて、いろいろな人とめぐり合う事は、人生の大きな財産だと思います。また、一つの事に熱中できるものを持つのも、長い人生の大きな支えになっていくものだと思います。ですから、若い人もいろいろなスポーツを経験して最高の青春時代を過ごしてほしいと思います。
最後に、両親を始め応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。結果的にメダルを持って帰ることはできませんでしたが、自分なりに全力でがんばってきました。この経験をバネに、もっと体操に、人生にチャレンジしてゆこうと思っています。

プロフィール
・生年月日/1975年4月14日生まれ(25歳)
・出身校歴/堺市英彰小学校~清風中学校~清風高校~筑波大学
・所属/徳州会体操クラブ(3年目)
・選手戦歴/
1997年 東アジア大会 種目別吊り輪・鉄棒3位
1997年 ユニバーシアード大会 個人8位、種目別あん馬2位
1997年 世界選手権大会 団体4位
1999年 NHK杯 個人6位
1999年 世界選手権大会 団体4位
2000年 シドニーオリンピック大会 団体4位 個人25位
2000年 全日本社会人選手権大会 個人1位 種目別床・鉄棒2位 吊り輪3位
2000年 全日本選手権大会 個人7位 種目別跳馬1位
・趣味/ドライブ、音楽鑑賞など
・スポーツ歴/幼稚園の頃は、水泳。小学校の頃は、子ども会でソフトボール
・大切にしているもの/オリンピックで使用したユニフォーム
・好きな言葉/努力
・尊敬している人/両親
・今後の目標/来年度の東アジア大会・世界選手権

柔道選手としてシドニーオリンピックに参加して
柔道ニュージーランド代表 BRENDON CROOKS
オリンピック選手に選ばれたと言うことは、私の人生においてもっともすばらしいことでした。私にとって幼い頃からオリンピックへ行くことは夢であり、ついにその夢がかなえられました。オリンピックで世界中のすばらしい選手たちに囲まれ、柔道ができるということは、自分自身を試し、証明するよい機会でもありました。
シドニーについて、まず、私は、オリンピックは大規模な文化イベントであるということを実感しました。すべての人々が知っているように、オリンピックは世界で最大のスポーツイベントです。しかし、私にとっては、全く異なる文化を持った異なる人々が、一度に一つの場所に集まるのを見るということは、ものすごいものでした。4フィート(約1m20cm)の体操選手と並んで、8フィート(約2m40cm)のバスケットボール選手が歩いているんです。見るものすべてに驚かされました。
本当にたくさんの人々の支えがあったからこそ、オリンピックに出場することができたと思います。現地での応援にも驚きました。ニュージーランドのたくさんの子どもたちから私の幸運を祈ってくれる手紙や写真、たくさんの友人からのEメールなど。私はとても幸せを感じました。しかし、まだまだ始まったばかりでした。
オリンピック初日に私の初試合がありました。翌日に試合を控えているので、オリンピック開会式には出席する事ができませんでしたが、少しも気にはなりませんでした。なぜなら、よい試合をするために来たのです。満員の観衆をかきわけ、会場へと向かったときの私の気持ちは言葉では言い表せません。畳に近づくにつれてどんどん緊張が高まっていきました。
オリンピック!
応援しに来てくれている人々が、私の名前を叫ぶ声が聞こえました。畳に一歩踏み入れたその瞬間すべての声が消えました。変に聞こえるかもしれませんが、それが柔道の時間なのです。もはやオリンピックではありません。コーチの声以外何も聞こえず、相手の選手以外何も見えませんでした。それが柔道です。私の愛する柔道です!!本当に私の人生において最もすばらしい体験でした。すべての人々が、一つのことのためにそこへ行き、自分のベストを尽くすのです。それが、私が挑戦し、愛したことです。
私のために応援してくださった皆さまに本当に感謝したいと思います。

プロフィール
・生年月日/1971年8月17日
・国籍/ニュージーランド
・住所/京都市
12歳より柔道を始める
1996・7年 大阪国際親善柔道大会参加
2000年 オセアニア選手権3位(シドニーオリンピック出場権獲得)
※第8回大阪国際親善柔道大会(11月26日大浜体育館にて実施・当事業団主催事業)に役員スタッフとして参加していただきました。
ブレドン選手の師、松浦明弘先生より
国際親善大会の出場が縁で、1997年ブレドン選手が、私の道場「大新柔道会」の門をたたき、指導を続けてきました。その年のUSオープンで負傷し、筋力が回復せず、1年後、友好会顧問ドクター廣橋賢治先生による手術。つらいリハビリトレーニングを経て勝ち取ったオリンピック出場は、今後の彼自身の人生設計を立てる上において、大きな糧となり自信につながるでしょう。また、彼を一人で育ててくれた、今は亡き母親の願いに報いることができたことを、ブレドン君と共に喜びたいと思います。
(1973年から2年間、ニュージーランド柔道ナショナルコーチとして尽力された大阪国際柔道友好会理事長)

シドニーオリンピック観戦記
大阪学院大学陸上部コーチ 福田厚治
今回、初めてオリンピック観戦に私たちは、シドニーへ向かいました。
というのも、ただ単にオリンピックを見に行ったのではなく、女子マラソンに出場した私の大学時代の先輩『高橋尚子』を応援することを一番の目的に、学校の企画に便乗して行ってきました。
2泊4日という日程の中、飛行機で約10時間かけてシドニーに到着したのが、マラソン前日の朝。私は、『シドニー』という実感がまだ沸かないというのに、早速、オリンピックパーク内にあるオリンピックスタジアムへ向かい、野球の日本対韓国戦をまず観戦しました。残念ながら、この試合は、韓国に延長の末、敗れました。韓国応援団のパワーはすごく、それが日本チームを圧倒したのかもしれません。その後、私自身の目的の一つであった100m決勝を含む陸上競技を観戦しました。スタジアムは、11万人入る規模のものでありながらほぼ満席で、そこに燃える聖火を見て、ようやくオリンピックを実感しました。少し遠目ではありましたが、やはりじかに見る世界のトップを決めるレースは、とても迫力があり、興奮しました。競技自体終わるのが夜遅く、興奮したままどうにか眠りにつき、翌朝起きたらもうマラソンの応援へと出発しました。
まず、途中の応援をするために、6km地点の沿道に陣取り、先頭集団を待っている間に学生時代のことを思い出していました。高橋さんは、私の大学時代の陸上部の2年先輩で、私とは専門種目が違いましたが、お互いにトレーニングルームでいつも最後まで残ってトレーニングする仲間として仲良くしてもらいながらも、人一倍トレーニングをする先輩から刺激を受け、私もトレーニングに励むことができました。高橋さんは、大学時代は、1500mから5000mあたりを専門とした、スピードのある選手で、全日本大学対抗選手権などではいつも上位入賞しており、日本の学生の中ではトップクラスでしたが、このオリンピックの舞台に立つまでになるとは、予想できませんでした。私には、2、3年前からシドニーに行こうということを言っており、「先輩が選ばれたら、僕ももちろん応援に行きますよ。」と約束していましたので、今回の運びとなりました。
話を戻しますが、その6km地点からスタート方向に目をやると、コースの起伏が感じられました。しかし、沿道にはたくさんの日の丸があり、国内のレースかと錯覚するほどの日本人の応援があり、日本勢にはとても走りやすかったのではないでしょうか。私たちの前を通過していく時は、まだレースの序盤ということもあって、日本勢は非常に落ち着いた走りをしていました。
その後、電車でスタジアムに向かい、ゴールを見ようと待っていましたが、なかなか途中経過がわからずやきもきしました。スタジアム内の巨大スクリーンに映し出された時には、高橋さんとシモンさんが抜け出て、並走している場面でした。場内もドッと沸きましたが、私も興奮して、じっと座っていられなくなりました。その後すぐに、あの『サングラススパート』によってシモンさんを徐々に引き離していったのです。相手がシモンさんなので、「少しの距離では安心できない。20秒では危ない、30秒ぐらいはあけないと。」と、大学陸上部の監督とも話していました。しかし、そんな私たちの心配をものともせず、高橋さんは、30秒程度の差をつけて、スタジアムに向かっていました。私たちは、その差を確認した時、金メダルを確信しました。
スタジアムに入ってきた時には、10万人近くの本当に大きな歓声に迎えられ、そのすばらしい雰囲気に包み込まれた私にも熱いものが込み上げてきてしまいました。疲れた様子でしたが、まだ足の運びはゴールに向けてしっかりとしていましたので、シモンさんの追い上げなど私には気になりませんでした。
そしてゴール!
もう、うれしくてうれしくて、撮影していたビデオカメラの映像も乱れてしまいました。私のすぐそばには小出監督やコーチの方がいましたので、皆で握手しあって喜びました。ウイニングランで私たちの前に現れた高橋さんは、頭を下げ、すごくいい笑顔を見せてくれました。私は、以前と変わらぬその笑顔を見に行ったようなものです。
シドニーは、オリンピックのスタッフだけでなく、住んでいる人たちがとても優しくて、町もきれいで、感じのいいところでした。
今回は、個人的にではありますが、オリンピックを満喫することができました。今、私は大学で陸上部の指導にあたっていますが、いつかは自分が指導に関わった選手が、このような舞台に立つことを夢見て、先輩に続く者がでるようにがんばっていきたいと思います。

シドニービーチバレー観戦記
中森昌子
1万人収容のビーチバレーボール会場。ボーンダイビーチにとうとうやって来た。波の音は聞こえないが、なんとも言えない素敵な色をしている。蒼というよりエメラルド色とでも言えそうな海が広がる。
どのボランティアの人も皆笑顔で迎えてくれる。シドニーにやってきたという実感がじわじわと湧いてくる。日本での試合と明らかに違うのは、観客の多さ(オリンピックなのだから、当たり前だが…)と乗りの良さ。
コートサイドには、二人のDJがマイクを持って準備。各国の応援団を盛り上げていく。プレー中以外は常に乗りの良い音楽で盛り上げる。何しろ観客を全然飽きさせない。「Slowmotion Wave!」と呼びかけると、『美しく青きドナウ河』の音楽と共に、ゆっくりとしたwaveが観客によってできあがる。2、3周も戻ってくる。「Big Wave!」と叫ぶと同時に観客席上段のスクリーンには、“Bond! Beach Do the Wave!”が映し出される。
私たち佐伯選手の応援団は、持ってきた横断幕を手すりに垂らすのを阻止され、仕方なく手で振っている。カチカチなるメガフォンも入り口で回収されてしまった。唯一許されたのが、手で振る小さな日の丸だけ。もう大きな声で張り上げるしかない。はっぴ姿で踊る若者はなぜか外国では珍しく、人気を得ていた。お金を持って譲ってほしいとやって来た外人もいた。
ボランティアの地元応援団は、黄色とグリーンで統一され、20人はいるだろう。小錦のように太った男性が、トランペットと太鼓に合わせて、リズムよく踊る。ブラジルの選手(世界ランク1位のシェルダ選手)などは、その応援団を自分の手拍子で乗らせて、自分もそれに乗ってテンションを上げている。やっぱり気分の盛り上げ方がうまい。
観客席の床をどんどん鳴らして、地響きも作らせた。床が抜けないかと少々遠慮して参加した。後で日本の選手が話していたところによると、コートで構えていると、その音で両足が砂の中に少しずつ埋まっていくのがわかるそうだ。
息詰まる試合の連続だった。心の底から、メダルをとってもらいたい、とらせてあげたい、と思っていた。3位決定戦で敗れた瞬間、砂の上で大の字になりながら、シドニーの青い空を眺めて泣いていた高橋選手。それを起こしに行った佐伯選手。日本では味わえない応援風景。最高の試合を目の前で観戦できた。
大きな感動をありがとう。
元気をくれてありがとう。
素敵な思い出をありがとう。
夢のようなオリンピック。
夢のようなシドニーだった。

オリンピックテレビ観戦感想文
(藤田健一選手出身の英彰小学校5年児童より)
私は、オリンピックには興味が全然なかったけど、藤田選手が英彰の卒業生だと聞いてオリンピックを見ました。藤田選手はおしかったけど、私から見るととてもすごい選手です。いつもはちょっとしか見ないニュースも、新聞とかで大きくのっていると、オリンピックはよっぽどすごいものだとわかり、暇があれば見ていました。今後もがんばってください。(矢野眞里加)

いつか忘れたけど、オリンピックの体操を見ていた。そしたら、藤田選手が出てきた。家族でテレビにしがみつきながら見守っていた。平行棒の時、藤田選手はすべって失敗してしまった時、家族みんなが、「あーおしかったなー。藤田選手」と言っていた。自分が平行棒から落ちたような感じだった。(村上沙織)

ぼくは、あまりオリンピックには興味を持っていませんが、藤田選手のあん馬とサッカーぐらいしか見てません。藤田選手のあん馬は、速くて、きれいで、静かでした。サッカーは、うまくパスしてゴールの前まではいけるのですが、そこからゴールにシュートができずに、ちがう所へとんでしまうのが多かったです。(石田隆之)

私は、女子の体操を見てて、すごいなと思い、藤田選手を思い出してテレビを見てると、藤田選手が、英彰小学校にきて見せてもらったビデオより一層にすごいなと思いながらずっと応えんしてました。これからもがんばってください。(武田瑞穂)

オリンピックの開会式のとき、日本が出るのを楽しみにしてました。私が一番見たかったのは、藤田選手の体そうとシンクロです。早く藤田選手が出ないかうきうきしていました。けど、私はあまり見られませんでした。シンクロの「火の鳥」は、感動しました。やわらちゃんもすごかったです。すごく感動しました。(辻 恵子)

ぼくは、夜、藤田選手を見て、すごいんだなぁと思った。オリンピックに出てるだけでもすごい。藤田選手、4位おしかったですね。日本代表よくがんばったと思う。これからもがんばってください。(山本宣仁)

私は、テレビで見たとき、誰が体操しているのかわからなかったけど、最後に名前がのっているので見たら、藤田選手でした。手で支えて足だけ回す所がとっても感動しました。(萩原 舞)

テレビで日本の選手が出ると、家族が何をしていてもテレビの前にすわります。特に、体そうの藤田選手が出ると、とにかくドキドキします。「うまくいくかなぁ。」なんて、みんなひとりごとを言います。成功した時は、テレビに向かって拍手してしまいます。だから、見えていないけど、テレビに向かってみんな日本の選手を応えんしていることがわかったらいいなと思います。(小柳茉莉香)

私は、いつもテレビを見ていました。スイミングとマラソンを見ていました。私があこがれているのは、高橋尚子選手たった一人です。私は、学校から帰ってきてテレビを見ていると高橋選手が金メダルを首にかけていました。私は、びっくりして感動しました。私は夢みたいになみだが止まらなくなりました。(羽島智佳)

僕は、オリンピックで一番見たいのは、サッカーと野球でした。サッカーは中田選手が好きでした。藤田選手が出ている体そうは、あまり見ていなかったけど、初めてみた時、すごいと思いました。鉄棒は、ぼくが見た時、いっぱい練習したんだなあと思いました。(川瀬周平)

オリンピックを見て感動したのは、やわらちゃんが金メダルをとったことです。世界の強い人を倒して勝ち残って優勝して、あの時は、すごく感動しました。また、4年後のオリンピックで金メダルをとって、世界の人たちをあっと言わせてほしいです。藤田選手にも、4年後のオリンピックは、優勝してほしいです。(佐々木明日香)